森保一監督の若い頃から現役時代の経歴まとめ!高校時代はやんちゃだった⁉︎

W杯日本代表の森保一監督は、東京五輪から監督と勤めていて日本人監督としては長期の任期です。

森保一監督の若い頃はもちろん現役時代があったわけですが、どんな選手だったのでしょう?

森保一監督とサッカーのことはもちろんのこと、高校時代にはやんちゃだった!?との情報もあります。

森保一監督について調べてみました。

目次

①森保一監督の若い頃の経歴!高校時代はやんちゃ!?

サッカーを始めたのはいつ?

森保一監督がサッカーを始めたのは小学校5年生からでした。

森保一監督の父親は造船関係の仕事をしていたため、転勤が多く、森保一監督自身も各地を転々とする生活が続いていたといいます。

森保一監督は静岡県の生まれですが、小学校に上がる前までにも神奈川県や愛知県にいたこともあるとか。

小学校時代

父親の仕事で各地を転々としていた森保一監督ですが、長崎県長崎市に落ち着くこととなります。

長崎市に転居する直前に居た佐賀県唐津市では、小学校に入学するものの1年で転向することになりました。

小学校5年生からサッカーを始めた森保一監督ですが、小学校6年生の時にはサッカークラブチーム土井首SSSに所属します。

クラブチーム時代には、第4回全国少年サッカー大会にGKとして出場しています。

サッカーを始めて1年での出場ですから、センスがあったのでしょう。

高校時代

森保一監督は長崎日本大学高等学校へ進学します。

当初は、サッカーの強豪高校である長崎県立国見高校へ進学しようとしたのですが、受験に対する森保一監督の態度が不真面目であると父親が反対したというのです。

高校時代の森保一監督は、攻撃的なMFとして活躍し山梨国体では選抜に選ばれるほどの実力でした。

しかし、当時は森保一監督が進学しようとしていた国見高校と、長崎県立島原商業高校が全盛期のころであったため、森保一監督はインターハイや選手権などの全国大会への出場は叶いませんでした。

ところで、高校時代の森保一監督はやんちゃだった?!といわれていますが、こんなエピソードがあったためかと思われます。

それは、森保一監督が高校時代に2度もレッドカードを受けたからです。

レッカーのレッドカードといえば一番重いペナルティであり、これを受けるということは相当なルール違反をしたということになります。

けれども、森保一監督がレッドカードを受けてまで行動に出たことにはきちんとした理由がありました。

その理由とは、チームメイトがラフプレーでやられたからというものです。

森保一監督は、仲間を助けるために相手校の選手にとびかかっていったのですね。

サッカーはチームプレーですから、仲間を思う森保一監督の熱い思いを覗くことができるエピソードではないでしょうか。

社会人からプロへの時代

高校卒業後もサッカーをしたいと考えた森保一監督は、東洋工業(現:マツダ)に入社します。

当時はまだJリーグが発足しておらず、クラブチームを持っている企業への就職という形がサッカーを続ける手段でした。

森保一監督は高校時代もこれといった実績がなく、入団テストでもあまり良い評価ではなかったようです。

しかし、当時東洋工場の監督を務めていたハンス・オフトさんが森保一監督の選手としてのバランスの良さと視野の広さを買い、合格としました。

のちにこのハンス氏は日本代表の監督となり、森保一監督を代表選手として招集することとなります。

とはいうものの、森保一監督が日本代表選手となるのは数年後の話です。

その時まで選手としての森保一監督はなかなか注目されることはありませんでした。

東洋工業では、日中は梱包の仕事をして夕方からサッカーの練習をするという毎日です。

しかも、最初の2年間ほどは2軍での活躍が続き、3年目にしてようやくトップチームでプレーすることができるようになったといいます。

当時の森保一監督の手取りは、なんと45,000円ほどだったということでした。

サッカーで食べていくことに不安を感じていた森保一監督は、将来に備えて大型免許を習得したほどだったといいます。

②森保一監督の現役時代の経歴まとめ

現役から引退まで

森保一監督が東洋工業のサッカークラブに入ったのは1987年のことです。

当時はJリーグの前身で日本サッカーリーグでした。

東洋工業サッカークラブは、のちにサンフレッチェ広島となり

1992年には日本代表に召集されます。

ここで、森保一監督は日本のワールドカップ初出場が叶わなかった「ドーハの悲劇」を経験しています。

1998年にはハンス・オフト氏が監督を務めていた京都サンガにレンタル積となります。

翌年、森保一監督はサンフレッチェ広島に復帰。

森保一監督は初のJリーグ通算200試合出場を達成します。

2002年にはベガルタ仙台に移籍しますが、翌年には戦力外通告となり、2004年に引退となりました。

現役引退後の森保一監督はJFA公認のS級ライセンスを獲得して、サンフレッチェ広島の強化部に就任し、指導者の道を歩み始めることになります。

森保一監督の戦術の特徴は?

森保一監督の戦術の特徴をみてみましょう。

一言でいえば、森保一監督の戦術は「オーソドックス」です。

サンフレッチェ広島時代に森保一監督を支えた織田秀和氏によると

当たり前のことを当たり前にする
奇をてらうことはしない

とのことでした。

このような森保一監督の戦術が、ファンの間では「選手任せ」「面白くない」とされることもあります。

少し詳しく見ていきますと、森保一監督の戦術は手堅いチーム作りにあるようです。

対戦相手に合わせるようなチームは作らずに、自分たちの形がなくなるようなことはしません。

オーソドックスな戦術だからこそ、面白みがないと思われてしまうのかもしれませんね。

サッカーW杯は以下も検索されています、ぜひ参考にして下さい!

まとめ

森保一監督は、現役時代は努力の積み重ねで日本代表まで上り詰めました。

また、現在も監督として日本代表を率いる立場にあります。

現役を退いてからも努力を重ねてサッカーに携わり続けた人です。

サッカー選手の中では珍しく、私生活も着実な道を歩んでおり、そのような姿がそのまま試合にも仕事にも表れているような人なのではないでしょうか。

これかれも森保一監督率いる日本代表の試合から目が離せませんね。

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